高槻市中心部の南西に位置する富田町は1476年蓮如によって富田道場が創建されて以来一向宗派一門の拠点として発展し寺内町を形成していた。全国各地の一向宗勢力は時の領主と対立する一大勢力となり、富田も細川勝元(ほそかわかつもと1430-1473年)との一向一揆の戦いによって焼き払われてしまうが細川氏と本願寺の和解によって教行寺(富田御坊)が再興された。富田町には臨済宗妙心寺派の寺院普門寺(ふもんじ)がある。普門寺は1390年創建されたと伝えられるが1561年に元管領・細川晴元細川晴元(ほそかわ・はるもと1514-1563年)を隠居させるため城郭として築城され「普門寺城」と呼ばれ14代将軍足利義栄(あしかが よしひで1538-1568年)の居城になったことで知られる。信長、秀吉の時代になると「富田東岡宿」として楽市・楽座と公事免許が補償され、寺内町、宿場町、市場町の機能を合わせ持つ町として発展した。江戸時代に入ると富田は摂津一の酒造の町として有名になり、最盛期には24軒もの酒蔵があったといわれている。しかし江戸中期以降、池田・伊丹の酒や、灘・今津の酒が勢力を伸ばしてくると、富田の酒は衰退の一途をたどり、幕末に7~8軒、そして現在は2軒が残るのみとなったが店蔵を中心とした古い街並みが残されている。
国の名勝の設定を受ける普門寺、重要文化財に指定される木造菩提坐像などの貴重な文化財や、酒造や町家が残る町の風情を味わうことができます。
室町時代前期(1427年頃)に創建され、もとは光照寺といった。正保3年(1646)に本願寺の一字をあてて本照寺と改め「富田御坊」の印を与えられた。以降「富田の御坊」として信仰を集めた。 かつて境内には、「富寿栄の松」と呼ばれ、親しまれた松の老木があったが現在は枯死し、枝を支えていた約80本の石柱が残るのみとなっており、その威容を物語っている。
大己貴命を祀る三輪神社は、大和国三輪山に鎮座する大神神社から勧請したともいわれ、もとは普門寺の鎮守社とも、富田村の産土神とも言われていた。 神社に残る奉加帳序や棟札によると、寛永16年(1639)に普門寺の龍渓禅師により再興され、寛延2年(1749)には社殿が修復されたと記されている。現在は酒の神を祭る社として地域に深く根付いている。
富田は池田、伊丹とならぶ「北摂三銘酒」のひとつに数えられるお酒の名産地です。酒造りに適した良質なお米、阿武山系から流れ下る良質な水、丹波・丹後からの農閑期の労働力など、昔から酒造りに必要な条件を備えていました。
江戸時代の初めに、富田の酒造りは隆盛をきわめ、最盛期には24軒もの造り酒屋があったと伝えられています。その中心に位置したのが、清水市郎右衛門(屋号・紅屋)でした。清水家は、関ヶ原の戦いのとき徳川軍に協力した功績で、凶作の時でも酒作りが許されるなどの特権的な酒造りの免許(由緒株)を与えられたといわれ、将軍御目見えも許される家柄となりました。 江戸の町にも知られた銘酒「富田酒」。芭蕉の弟子、宝井其角(1661~1707)の作と伝えられる、前後どちらから読んでも同じ回文(かいぶん)俳句がのこっています。
この句にある「あやめ」とは、紅屋の酒の銘柄で、当時、江戸にまで知られた銘酒でした。江戸時代中期以降、灘の酒造業の勃興に伴って、生産量は次第に縮小され、紅家も幕末頃には酒造りをやめてしまいました。酒造りの伝統は、現在も受け継がれ、今も2軒の造り酒屋が富田の地酒を守り続けています。また、富田は大阪で初めて「地ビール」がつくられた地でもあります。
長い歴史に裏付けされた清酒造りだけでなく、平成7年からは全国でも9番目となる地ビール造りを開始した。その後も清酒造りのノウハウを生かした梅酒造り、近年では減圧蒸留器を導入し、酒粕を使った粕取り焼酎の製造にも着手。長い歴史をもつ地酒蔵でありながら、次々に新しい取り組みに挑戦し独自の商品開発を行っている。伝統にとらわれず時代の流れを敏感に感じ、さまざまなシーンで楽しめる酒を生み出している。